『三回目のおつかい』

 

***

 

 焦茶色をした縞模様の猫を追いかけた先の路地裏で、いちかは途方に暮れていた。

 

「ここ、どこ……?」

 

 上へ下へと視線を動かしてみるも、目的の猫の姿はない。右にも左にも見慣れた看板はない。もちろん知っている顔もない。

 

 おかしい。ちょっと前までは確かにいつもの道を歩いていたのに。言われたとおりにデイジーおばさんの店でバターを買って、今頃は家に帰って“ひとりでおつかい出来て偉かったね”ってママに褒めてもらえているはずだったのに。

 

「えっと、確かこっちから来て、あれ? ううん、こっち? そっちだっけ?」

 

 いちかは歩いて来た道へ戻ろうと思考を巡らせたが、どこを見ても見覚えがない。ここは本当に自分の住んでいる街だろうか。もしかしたらここは夢の中で、お気に入りの絵本の世界に入り込んでしまったのではないか。

 

「そ、そうよ。夢ならそのうち覚めるはず! じゃあ、えっと、こっちよ! ……きゃあ!?」

 

 そうして走り出した彼女はしかし、崩れた石畳に躓き鈍い音を立てて転んだ。

 痛い。手のひらを擦りむき、膝には赤い血が滲んでいる。

 

「うっ、ママぁ……、抱っこ、」

 

 いちかは顔を上げ、反射的に母を求めた。しかし、路地裏といえどもこの街は人が多い。この喧騒のなか小さな子供が転んだことに気付く者はおらず、ここにいない母親はおろか、誰からも救いの手が差し伸べられることはなかった。

 

「う……」

 

 いちかは急激に心細くなった。空を見上げれば、店を出た時には明るかった空はどんよりとした雲で覆われている。

 やはりここは夢の中などではない。もしかしたらこのまま誰にも気付かれず、家にも帰れず、ここで死ぬのかもしれない。家で待っているママにも、今夜出張から帰ってくるパパにも、もう二度と会えないのかもしれない。

 

 そう思った途端、その大きな紫陽花色の瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。

 

「うっ、うぇぇ……、ママ、パパ、やだ、やだ、かえる……、やだぁぁぁああああ」

 

 

 怖い。ここから動くのは怖い。ここに留まるのも怖い。誰か助けて。誰か気付いて。

 

 

 誰か、誰でもいいから、誰か。

 

 

 それは時間にして数分の出来事であったが、幼いいちかには永遠のように感じられた。

 膝を抱え込み、ぎゅっと目を瞑った瞬間。

 

 

「いちか?」

 

 

 少し低い、掠れた声が、頭の上から降ってきた。

 

 

 ***

 

 

 浅黒い肌に、人間とは違う耳。そして他の人と見間違えようのない長い尻尾を揺らしながら、その人はいちかを見下ろしていた。

 

「エドガー!」

 

 どこからともなく、それこそ猫のように足音も立てずに現れた救世主に、いちかは突進する勢いで飛び付いた。

 

「ぐぇ」

「エドガー! エドガー! こわかった、いちか、ひとりでおつかいして、ちゃいろくてしましまのねこちゃんおいかけて、そしたら、ねこちゃんいなくなっちゃって、それで、」

「お、おい、落ち着けって」

 

 エドガーはその長身を折って膝をつき、自分の身に起こったことを一気にまくし立てるいちかの頬に流れる涙を親指で拭ってやる。

 

「……土のにおい」

「ん? あぁ、俺の手? さっきまで花壇いじってたからかな。別に珍しくもねぇだろ」

 

 いちかにとってエドガーは、年の離れた兄のような存在だった。彼はいちかの両親と仲が良く、いちかが生まれた時から彼女の成長を見守ってくれていた。少々ケンカっ早い欠点を除けば、怖そうな印象を受ける見た目とは裏腹に面倒見がよく優しい性格であることをいちかはよく知っている。

 

「……いちか、茶色いしましまの猫ちゃんより、こっちのしましまの猫ちゃんが好き」

 

 そう言っていちかはエドガーの首元に顔を埋める。

 

「だから俺は猫じゃなくて……、まぁいっか。泣き止んだか? 家、帰るんだろ?」

「……うん」

 

 エドガーの大きな手がいちかの山吹色の髪を撫でる。

 

 よく知った顔とよく知った匂い。改めてそれを確認すると一気に安堵感が押し寄せてきて、止まったはずの涙は再びとめどなく溢れ出したのであった。

 

 

 ***