『ぽたぽた』
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『Midnight Tea Time』
午前二時。
騒がしかった下の酒場からもだんだんと人の気配がなくなってくる頃だ。窓の外は昨日から鬱陶しい雨が降り続いていて、天井から落ちた雨水が規則的な音を立てて床に染み込んでいく。
数ヶ月前から滞在している宿、文月亭はなかなかに年季の入った建物であり、ちょくちょくこういうことが起こる。雨漏りや隙間風なんかまだ良い方で、この間なんてリヒャルトが盛大に階段の板を踏み抜いているのを見た。
明日にでも親父さんに天井の補修を頼もう、そう思った矢先。激しい雨に叩かれる窓の外が、白く光った。数秒もしないうちに荒々しい雷鳴が響き渡り、窓枠が軋んで音を立てる。
「……近いな」
頭が痛い。雨は好きじゃない。愛しい故郷を襲ったあの惨劇の記憶を、失った友人知人の面影を、無理やりに掘り起こされるから。
――ふと、脳裏に過ぎる顔。
あの街で見た、紅い瞳の少女。
彼女は今、何をしているだろうか。
***
「はは、いた」
姿を見つけられる保証もないまま自室を出てふらふらと階段を降りた先には、目的の人物がいた。腰まである柔らかそうな黒髪に黒ずくめの服。極限まで気配を殺しているようで、テーブルの隅に置かれたランタンの灯りがなければそのまま闇に溶け込んでしまいそうな後ろ姿だ。
「……私に何か用?」
纏う色とは真逆の、透き通った湧水のような声が響く。いや、氷と言った方が近いかもしれない。ベリィは視力があまり良くない分、周囲の音に敏感だと聞いている。足音で俺だと見抜いたのだろう、自分一人を残して誰もいなくなった酒場に突然現れた俺に対し、特に驚いた素振りは見せなかった。黒々とした長く美しい睫毛に縁取られた瞳がちらりとこちらを見る。
「んー、なんとなく眠れなくて。誰か話し相手になってくんないかなぁって。君こそどうした? 夜更かしはお肌に良くないぜ」
「私は……、まだ、飲み物が残っている、から……」
そこまで言って手元に視線を落とした彼女は、空っぽのグラスを隠すように両手で覆った。
断りなく隣の椅子に座ると、彼女が身構えるのが分かった。彼女と俺が同郷だということはお互いに知っている。昔の話を根掘り葉掘り聞かれるとでも思っているのだろうか。
「……悪いけど私、あなたが喜ぶような面白い話は出来ないわ」
視線を落としたまま素っ気なく言い放たれた言葉は、雨音と重なりながら静かに部屋に響いた。
「別に面白い話じゃなくていいさ。暇つぶしに付き合って欲しいだけ」
「遠回しにあなたとは話をしたくないって言っているの。もう部屋に戻――」
ベリィが立ち上がろうとした瞬間、再度大きな雷が鳴る。
「……ッ!!」
ヒュッと息を飲む音が聞こえた。ふらついた足を支えるようにして椅子の背もたれを掴むその姿は、いつもの凛とした彼女には不似合いだと思った。
予想通りだ。この子は、雷が苦手なのだ。
あの日、両親を殺した時にも鳴っていたこの雷が。
「ほら、君も俺とお喋りしてた方が気が紛れるんじゃない?」
「……」
「今日、いつも一緒にいるあの子は? えーと、ナナちゃん?」
部屋に彼女がいるのなら、わざわざ一人こんな場所で過ごす必要はないだろう。
「……ナナは昨日から、依頼で隣町へ行っているの。他の人たちも一緒」
「なるほど。それで部屋に一人でいるのが怖くて、自室より窓の小さい酒場に逃げてきたと」
「放っておいてちょうだい」
ぷいと横を向く態度がなんだか子供のようで可愛らしい……とか言うとまた怒らせそうなので黙っておく。しかし彼女は俺のその思考を見透かしたかのように睨みつけてくるものだから、俺は思わず苦笑してしまった。
「ごめんごめん。心配してるんだよ、これでも」
「余計なお世話よ」
美人は拗ねても美人だな、などと口にしようものならいよいよ酒場から追い出されるだろうから、そうなる前に詫びを入れることにした。
「なぁ、お茶淹れてもいい? そのつもりでお気に入りの茶葉を持ってきてるんだ」
「好きにすれば」
「君も飲むんだよ。美味いぜ」
「……」
強引な誘いに呆れたのか、ベリィは小さく溜息をつく。反論するのも面倒になったのかもしれない。
「親父さーん、ちょっと借りるよ」
宿の亭主がいびきをかいて寝ているであろう部屋の方向へ小声で呼び掛け、戸棚からカップを取り出す。この古宿には不釣り合いともいえる洒落た薔薇のティーカップは、娘さんの趣味だろう。
「……良い匂い」
琥珀色の液体を注ぐ俺の手元を静かに見守っていたベリィが口を開く。先程より少しだけ和らいだ表情に見えた。
「だろ? シープスリープには行ったことがあるか? あの街の名物茶なんだ」
「染め物で有名な街だったかしら。訪れたことはないけど、名前くらいなら」
「空気も人も穏やかで良い街だよ。機会があれば行ってみるといい。可愛い羊もいるぞ」
言いながら、茶葉と一緒に持ってきたジャムの蓋を開けた。そのまま中身をスプーンでひと掬いして、白い湯気を立てるカップに放り込む。
「? 何を入れたの?」
「愛情。君がよく眠れるおまじない」
「真面目に」
「すぐ怒るー。リンゴのジャムだよ。安眠効果があるのはホント」
ベリィはふぅん、と頷きながら、目の前に置かれたカップとジャムの瓶を交互に見ている。瞼を伏せ、いただきます、と小さく呟いて口をつける様が絵画のように綺麗で、思わず見とれてしまった。
「……美味しい」
「そっか。良かった」
彼女が素直に幸せそうな表情を浮かべたのが嬉しくて、自然と笑みが零れた。ちらりと外を見やればまだ雨は降り続いていたが、あれ以来、雷の音は聞こえない。
「ザクロ」
「んー?」
「ありがとう」
「……どーいたしまして」
たまには深夜の茶会も悪くない。
窓に当たって弾ける雨音が、今は少しだけ心地良かった。
***
了